音楽

それいゆ 3 -チーズ-

今日は朝から思いもかけないところで思いもかけない人に会った。
いつも仕事がひとこごち区切りが付くたびに足を運ぶ小さなバーがあるのだが、そこのマスターによく似た人がバス停に立っている。
夕刻で、店の付近であればそんなに驚くことはないが 今は朝の8時で、しかもここは店から遠く離れた・・・と言うよりは当時私が住んでいた箱崎という倉庫や貿易会社のある場所で、福岡市の中でもかなり辺境地である。
「おはようございます。 マスター・・ですよね」私はおそるおそる声をかける。
「おや お早うございます。 こんな所で奇遇ですね」とマスター
「私の家がこの辺ですから・・・」
「そうでしたか。実は昨晩からこの近くの輸入会社にチーズの買い付けに来てましてね」
・・と嬉しそうにニコニコとしながら話している所を見るときっと何か良い素材が入手できたようなので訪ねてみた。
「楽しそうですけど 何か珍しいチーズでも?」
「はい、それはもう是非ともご紹介致したいものが・・・」と笑顔で答えてくれた。
「それは楽しみだ 早速今晩にでもおじゃましますよ」
「お待ちしております」
・・と話しているうちに私の乗るバスが着いて軽く会釈をして乗り込んだ。

さて仕事も終わり今朝の会話を思い出しつついそいそとその店に向かう。
そこは80年代も後半になろうというのに今だに「トリスバ-」の看板を掲げ、その下に遠慮がちに「それいゆ」と書かれている。
店に入るとコートハンガーに上着を引っ掛け、いつものカウンター席へ。
「いらっしゃいませ」・・・とマスターがいつものようにおしぼりと一杯のジン。
そしていつものようにやおらその一杯を流し込む。
「ん!? これは・・・」いつもと違った飲み口に思わず唸ってしまった。
今までいろんなジンを飲んできたがこの味わいは初めてで重さの中にすっきりとした抜けの良い香りと喉ごしの良さを感じる。
「美味いなぁ でも初めて飲む味です。」
「ですよね、ちょっとした出来心でして・・・」とマスターがカウンターにボトルを並べ始めた。
ブードルス、タンカレイNo.10、ゴードン・オールドトム、そしてポンペイサファイア
「え? まさかそれを?」
「はい 今日はブレンドしてみました。」とマスターが微笑む
「今日は 少々仕掛けがありましてね・・・」 そう言いながら薄く切られた白いチーズを2切れほど銀の小さなトレイに乗せ先ほどのブレンドジンをもう一杯用意してくれた。
「チェシャーチーズです。イギリス産で多少塩みが強いので薄めにスライスしました」
勧められるままに一枚口に運んでみる。
なるほど あまりクセがなく少しの酸味と強めの塩気が嫌味なく口に広がってくる。
後味もしつこくなく滑らかなミルク臭がのこり、そこにこのジンを一口含む。
「うまっ!」思わずながら口から声がこぼれた。
ジンのハーブと絶妙にマッチして爽やかに喉から鼻に抜けていく感じがなんとも心地よい
「いたずらが功を奏したようですね」マスターがカウンターの向こうで微笑む。
「いたずら・・ですか?」と聞くとマスターはニコニコしながら答えてくれた。
「ええ 実は氷は使いませんけど軽くシェイクしてあります。
 それからこれが本当のいたずらですけどね・・・」と言ってシェリーのビンをカウンターに置いた。
「シェイカーにそっとくぐらせてあるんです。」
「なるほど 魔法の正体はフィーノですか」
「はい 今日はフィノよりもチーズと相性の良いマンサニーリャを使ってみました」
「それじゃこれが ラ・ゴヤですか 初めて見ました」と ボトルを手に取った。
「おや そうでしたか では少しなめてみますか?」・・とショットグラスに1/3程注いでくれる
「これが ここにくる楽しみですから」そういいながら香をかいで口に含む。
スッキリとした口当たりの後からほんのりとアーモンドのような残り香が心地よい。
それに「気のせいか少し塩気があるような・・・」
「ラ・ゴヤは海岸の近くだそうですから きっとそのせいでしょうね」とマスター。
そして今度はやや硬そうなチーズを小さなキューブにしてなんともかわいい皿に3つほど転がしてくれた。
「こちらが今日のとっておきです。」
見た目はやや濃い目の黄色でおそらく一番外側であろう部分はさらに乾燥していて白く粉をふいている。
この粉はカビなのか塩なのか・・・と考えながら口の中へと放り込んでみた。
「しょっぱ!・・塩か、この味はヤギ? いや羊か・・・」と思わず呟く。
「少し酸味があって 乾燥して・この後味・・あっ!」その瞬間 かなり昔の記憶が駆け上ってきた。
「ベドウィンのテントの上で干してたやつだ」
「やはりこれでしたか」マスターがニコリとする。
「うわぁ 懐かしい よくこんなのあつかってましたねぇ」
「はい 以前このチーズのお話を伺ったときから 私も一度は食べてみたくて業者さんに探してもらえるようにお願いしてたんですよ」
「すごいですねぇ またこれを食べられるとは思いませんでした、・・でマスターの感想は?」
「お話いただいたダイナミックな作り方からは想像できないくらい繊細な味でした。しかしこの皮がいけない。
適度に発酵した旨味とコリコリとした小気味よい食感が強い岩塩の塩気と仄かな苦味と絶妙に合ってて止まらなくなります。」とマスターは笑いながらなにやらリキュールグラスに注いで私の前に置いた。
「試してみてください。」
私は言われるがままに塩気の強い皮の部分を口に放り込んで味わい、そしてグラスの中身をグッと一気にいった。
「ふぅ 旨い! テキーラか こりゃやられたね」
「やっぱり こう言った塩味にはコイツが合いますね」マスターは嬉しそうに笑いながらいつものターンテーブルにレコードを乗せゆっくりと針を落とした。
「今日はおいでになるとの事でしたのでこんな曲をご用意いたしました。」
流れてきたのは芯の強いドラムに小気味の良いヴィブラフォンの旋律。
奏でているのは「ウォルト・ディッカーソン カルテット」
彼の幻のアルバム「Lawrence Of Arabia:Jazz Impressions」の中の
「That is the Desert」という曲だ。
カウンターの上には晩秋に似つかわしくない暑く乾いた風を感じた。

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